北インド・リシケシへの旅 第4回 ビートルズが見つけたもの

2019.11.04

ビートルズ・1968年

ビートルズ・1968年2月

さて、今日はビートルズ・アシュラムと地元で呼ばれる場所を訪ねることにします。

当時世界的に人気絶頂にあったビートルズが、このリシケシの町にやってきたのは、今から51年ほど前の1968年2月でした。

ここで当時の師匠のマハリシ師のアシュラムに滞在した7週間の間に48曲を作ったと言われています。 彼らが最も創造的だった時期とも言えます。

この滞在の後にリリースされた”White Album”というアルバムには、その影響を色濃く反映した歌詞の楽曲が色々登場します。

例えば”While My Guitar Gently Weeps”, “Dear Prudence”, “Black Bird”などの曲がその代表例です。

実はその前年の1967年8月にイギリス西部のウエールズのバンガーという町でそのマハリシ師のリトリートが開かれ、そこで彼らは初めて瞑想法を学んだのでした。 その最中、彼らを無名時代から支え、5人目のビートルズとさえ言われていたマネージャーのブライアン・エプシュタインが若干32歳の若さで睡眠薬の過剰摂取で死亡した、とのニュースが飛び込んできたのでした。

メンバーのショックたるやいかばかりか。 その時の彼らの様子はYoutubeで見ることが出来ますが、悲嘆にくれた様子が伝わってきます。

楽曲作りは創造力の産物です。 ビートルズのようにほとんど自分たちで作詞作曲するアーティストの場合は、詩想が枯れないか、音楽の神様に見放されないか。 その恐怖が心の奥底にあるのかも知れません。

楽曲作りの幅を広げるのに意識を拡げる必要を感じ、それをLSDなどのドラッグによるトリップ体験で得ようとしていた彼ら。 地上を駆け回っての景色しか見ていない人が、空を飛ぶことで得られる別次元の視点を得られたら、斬新な曲が作れるはず、と思っても不思議ではありません。

マネージャーの若過ぎる死は、それをある意味打ち砕きました。 なぜなら彼自身がドラッグの中毒患者であり、その不眠症状を過剰な睡眠薬とアルコールの同時摂取で致死に至ったからでした。

ならばと、意識を拡大する手段を瞑想に求めることは、彼らに残された自然な選択でした。

そういう背景の中で、北インドで瞑想の指導者養成の3ヶ月コースが始まるというニュースに接した彼らは、世界的に超売れっ子であった多忙なスケジュールを調整し、そのコースに参加を決めたのでした。

それでは本日は、このビートルズが約50年前に魂の救済と異次元の意識解放を目指してやってきたアシュラムに、歩いて行くことにします。

ラクシュマンジュラ橋

ラクシュマンジュラ橋

上流のラクシュマンジュラ橋を西側から東側の左岸に渡ります。 渡りきった突き当たりを右に歩みを進めます。 30メートルほど行くと、ラムジュラ橋へと向かう乗合ジープの乗り場が右手に出てきます。 今日はこれには乗らずに歩いて下流へと向かうことにします。

そのまま100メートルほど歩いて行くと、お店の並びが切れていき、そこからさらに10メートルほど歩いて右手のレンガの壁が一部壊されている箇所があります。 

ここはかつてのガンジス川沿いの道へのアクセスでしたが、数年前にそのさらに10メートルほど先の右側に整備された遊歩道ができ、今日はそちらに曲がります。

この遊歩道を暫く歩いていくとやがてガンジス川沿いになっていきます。 この地域には、今でも現役のサドウやサンヤシと呼ばれる修行者が暮らしています。

ガンジス川が右手に見える遊歩道を進むと程なくして、このリシケシの町を有名にした聖人シバナンダ師(1887~1963)が、一人庵を結んで修行(サーダナ)に明け暮れた小屋が左手に登場しますが、うっかりすると通り過ぎてしまいます。

やがて下流の橋であるラムジューラ橋のたもとを過ぎて、最初の道を右手に折れて真っ直ぐ歩いていきます。 このガンジス川東岸沿いの道には、いくつかのアシュラムが立ち並んでいます。

ひたすら道なりに800メートルほど歩くと道が行き止まりになり、そこを左に折れると、ビートルズ・アシュラムの入り口に到着します。

こちらは、40年近く政府の管轄地として廃墟になっていましたが、2015年にチャウラシ・クティヤという名前の記念公園としてオープンされ600ルピー の入場料を払って、敷地内に入っていけます。

因みにこのチャウラシ・クティヤという名前ですが、文字通りの意味は『84の瞑想洞窟』と言った感じでしょうか。

84という数字は、シヴァ神が人類に与えたというヨーガ・アーサナの84のポーズからきており、その数の瞑想用の半地下の洞窟部屋が作られたことに由来します。 

入場して坂道をゆっくり登っていくと、石造りの三角屋根の建物がたくさん出てきます。 中は2階建になっており、下で瞑想、上が生活の場になった小さな建物です。

通路を進むと左手にかつてのキッチンや郵便局などを過ぎていきます。 やがて突き当たりの裏門まで進むとその左手に現れるコの字型の建物が、ビートルズの面々がパートナーと滞在した部屋のある所になります。 

当時のレクチャーホール

当時のレクチャーホール

その建物から真っ直ぐにガンジス川に向かって進むと、そこはかつてのレクチャー・ホールが登場します。 屋根はなくなっていますが、ビートルズも参加したレクチャーが行われた会場の雰囲気は今でも十分に伝わってきます。

そのホールからガンジス川沿いの細い道には、レンガを縦に置いて敷き詰めた特別の通路が設けられており、その小道を下りていくとマハリシ師の住んでいた建物が現れてきます。 

ガンジス川を見下ろし、対岸にはサンスクリット語やヴェーダテキストを学ぶ3年間のコースが開かれている『ダヤナンダ・アシュラム』が見えます。

ダヤナンダアシュラム

ガンジス川越しのダヤナンダアシュラム

今回ビートルズの面々が、わざわざ北インドの小さな町にやってきたのは、先ほど書いたように瞑想指導者になるコースへの参加でした。

このコースでは、ひたすら瞑想に明け暮れることが求められ、1日に1回〜2回あるレクチャーも必ず参加する必要はなく、瞑想を続けていたければそちらを優先して良いというものでした。

そうしてストレスを解消し、自己の意識を限りなく拡げることが指導者になる必要条件ということでした。 

瞑想より仲間とのお喋りのほうが楽しい、という参加者もいたようですが、コースの指導を真面目に実行する参加者の中には、食事と睡眠以外の時間は瞑想にひたすら明け暮れる、という強者も現れます。

そんな”強者”の一人に大女優ミア・ファローの妹、プルーデンスがいました。 

ミア・ファロー

ミア・ファロー

実は今回の参加者の中のセレブとしては、ビートルズだけでなく、このミア・ファローも飛び抜けた参加者でした。 

若干23歳のミア・ファローですが、かつて日本でも放映されたことのある米国の人気TVドラマ『ペイトン・プレイス物語』(カラーの技術はあったもののセピア色のトーンを出す為にわざと白黒で作られていました)の中での役柄で有名になっていたところへ、当時、米国芸能界のドン的な存在の29歳年上のフランク・シナトラと結婚していたのですから、知らない者はいない存在でした。 

映画好きな方であれば、『ローズマリーの赤ちゃん』や数々のウッディ・アレン監督の作品で登場した彼女を記憶されていることでしょう。

その彼女が妹と弟を一人ずつ連れて、このコースに参加していたのでした。

その19歳の妹のプルーデンスは、文字通り寝る時間と食事以外はひたすら瞑想三昧だったそうですが、ここで事件が起こります。

プルーデンスの部屋の周囲の人たちが夜眠れなくなってしまったのです。 部屋からの音が尋常のレベルを遥かに越えたものになり、それが毎晩続くようになります。

過去に使ったドラッグの影響だろうとか、ストレス解消が激しく出たのだろう、とか色々分析はされますが、彼女の状況は悪化の一途を辿ったそうです。

外部の医療施設に移すことなども検討されたものの、結局アシュラム内にとどまることになり、専任の看護士2名が、24時間体制の2交代で部屋に常駐することになりました。 

彼女は食事を含めて一切部屋から出てこなくなります。 この時にジョンレノンが作った曲がホワイトアルバムに収録されている『Dear Prudence』になります。 

♪Dear Prudence, won’t you come out to play♫(プルーデンスちゃん、部屋から出て一緒に遊ぼうよ〜)

この事件は2つの変化をアシュラムでの生活にもたらしました。

一つはそれまでの出来るだけ長く瞑想するのは進化の為に良いことだ、という指導が修正されて、安全第一とばかりに急に長時間の瞑想を実施することが推奨されなくなったこと。

もう一つが、急激なストレス解消を少しでも緩和する目的で、外部からヨーガ・アーサナの指導者を急遽招聘して、瞑想前に簡単なアーサナをすることが付け加えられたことでした。 

 

しかしここでもう一つの大事件が起こります。

4月までアシュラムに残っていたジョン・レノンとジョージ・ハリソンが、仲間への挨拶もそこそこに突然アシュラムを去ったことでした。

期待して来た意識の拡大はここでは望めない、と観念し、急遽手配したデリーまで向かう6時間の車中で作ったのが、これもホワイトアルバムに収録されている”Sexy Sadie”という曲でした。。。

当初の曲のタイトルは『マハリシ』でしたが、それは流石にやり過ぎだとジョージ・ハリソンにたしなめられて、タイトルが変更されたものでした。

また、タイトルに”Sadie”と男性でなく女性の隠遁者を表す言葉に変更しているところは、『マハリシ』と韻を踏む為に『セクシーサディ』に変えたものです。

しかし、歌詞の中身はここではあえて書きませんが、ジョン・レノンの怒りが炸裂しているのです。

意識を拡大するという目的で北インドのジャングルの中にやって来た彼ら。 師匠は目的地への道先案内をしてくれますが、師匠は目的ではありません。 主役はあくまでも目的地に到達することです。

そんなことは平常心であれば理解することでも、見聞きしたことのショックの大きさに、とてもこの場にはいられないと思ったのでしょう。

これから2年後の1970年には、世界中のファンに惜しまれながら、バンドとしての活動を停止することになります。

 

一方のプルーデンスさんはこのビートルズの突然の離脱に前後して、錯乱状態から平常心を取り戻し、指導者養成コースを継続します。 

インドが最も暑い4月の最後の2週間は、風光明媚で知られるインド北西部カシミール地方のスリナガールの町の湖上ホテルに会場を移し、指導儀式で唱える章句の暗唱に専念することになりました。 

そして最後の仕上げに一行は首都デリーに移動します。

ここでマハリシ師から一人一人が呼ばれて、一対一でマントラという音を習いました。 その音が一つだけだったり、多い人でも三つだけだった為に、習った者の間で『あれっ、もっとたくさんあるはずではないの?』という戸惑いともどよめきとも取れる反応があったのでした。

当初の参加者は80名ほどだったのが、その半分ほどの人が自らコースを離れ、最終的に40名ほどの終了者の中にプルーデンスさんも入っていたのでした。

そんな50年前の出来事に想いを馳せ、”強者どもが夢の跡”となったジャングルを後にし、ラームジュラ橋へと歩いて戻ります。

(続く)

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