コンセプト

”静坐” すわれば🔜そこから救われる

起きてる時に、静かに座ることってまず出来ない

意識は心と身体のタグボート

 自然は決して間違わない。 でも人は間違える。 だから、自然に委ねればいいのだけれど、どうすれば委ねることになるのかわからない。 手を離せばいいとわかっていても、指に入った力が緩まない。 

 

 自然の邪魔をしているのは、自分の頭の中でめぐっているあれやこれやの妄想念。 そう言われても寝てる時ならいざ知らず、起きてる時に色々考えてしまうのは当然でしょう、と思ってしまう。

 

 だから起きながらにして無心になる心のテクニックが『静坐』なるもの。 これで自然の邪魔をしなくなる。

 

 ここで言う自然とは天地の動きだけでなく、自分の身体という小宇宙の営みも含まれます。 自律神経の働きもその一つ。 内分泌系のバランスもその一例。

 『静坐』では、最低15分は座ります。 それは自律神経があの安らぎの神経である副交感神経オンになるのに、最低それくらいの時間がかかる身体を持って私たちが生まれてきているから。 もちろんその時間に個人差はあるけれど、最低そのくらいはかかります。

 

 しかるにそれだけの時間さえ、私たちは一人で座っていられない。 じっとしてられない、という人は多い。 そして、無心になるどころか、色々頭の中には邪念・妄想念の類いが押し寄せてくる。 

 

 そこで『静坐』の起きながらにして無心になる、真骨頂の出番となる。 『和音』なる音が登場し、心をあの無心の境地へと導いてくれる不思議空間が現れてくる。 

 

 それって『静坐』は瞑想で、『和音』は真言とかマントラとかって言うのと同じでしょう、と言う声が聞こえてきそうだが、そうではないのです。

 

あるインド発の瞑想の指導者の瞑想指導に参加したことがあります。 主催されている指導者の方が、その部屋に集まっている全員に対して一つの『音』をおっしゃて、これがあなた達が使うマントラです、と告げられました。 まるで節分の豆でも撒くように、その部屋にいた全員に対して、同じ”音”が配られたのでした。

 

また、別のインド発の瞑想の指導では、一人ひとり個別にマントラの音が選ばれます、と説明がされています。 しかし、実際の音の選定では、これで個別に選んでいる、と果たして言って良いものだろうか、という疑問が拭えませんでした。

 

一方、天空庵の静坐の指導では、実際に一人ずつ個別の和音が選ばれます。

 

ですから、瞑想と呼ばないことは、あえて差別化しようとしている訳ではなく、大事な部分で違うので言い方を変えるしかないな、と思えるのです。

 

ただ、ここで重要なのはその和音なり、マントラなりの音そのものに霊力が備わっていたりする訳ではなく、最も大事な点はその音の使い方になります。 静坐を指導するとは、とりもなおさず、その音の使い方のコツを掴んでいただくことになります。

 

また、それって坐禅ではないの、という質問を受けることもあります。

 

その昔、社会人になった際の新人研修の一環として、禅寺に送り込まれたことがありました。 その時点で瞑想する習慣を実施していた者として、坐禅がどんなものか興味津々で臨みました。

 

まず驚いたのが、薄目を開けて50センチほど前の畳に視線を落とす、というところ。 えっ、目を閉じないんですか、と二度聞きしたくなる驚きです。 不動心に確率されたならば、目を開けていても閉じていても変わらない境地になるかも知れませんが、その途上にある修行の身としては、どう考えても目を閉じた方が良いでしょう、とツッコミたくなったのを覚えています。

 

そして次なる驚きは、あの有名な身体が動いた時の警策(きょうさく・けいさく)によって、肩をバシッと叩かれるものです。 無心になりなさい、と最初に言われておきながら、身体が動かないように気を張っていろ、と言われているようなもので、どっちなんですか、とこれまたツッコミどころとなりました。 無心になると身体は動くことがいくらでもあるのです。

 

そんな具合で、坐禅では良かれと思っての決まり事なのでしょうが、どうにも無心になりにくいように遠回りしている感が否めませんでした。

また、近年のマインドフルネスと違うのですか、と問われることもあります。

 

こちらの『マインドフルネスとの出会い』でその体験を書いてみましたが、静坐との違いを確認することにもなりました。

 

身体に意識をもってこようとすることと真逆で、意識も含めて何も考えない状態を目指す静坐ですから、『マインドレスネス』と呼んでいます。

 

月影の至らぬ里はなけれども 眺むる人の心にぞ棲む (法然上人)

 

月影とは月の光のこと。 月の光はあまねく大地を照らしているけれど、私たちが見つけたい本来の光は自分の心の中にあるんですよ、と促しています。 法然上人の浄土宗では、その手段として『南無阿弥陀仏』を唱え続けること、と指導されているようです。

 

古来から大いなる”光”との遭遇を体験し、”それ”を生きた人達がいます。それはその瞬間に自分が初めて産まれてきた、と思える歓喜であり、それ以降の景色は一変します。

 

私たち一人ひとりがその『光』と出会う体験へと進みましょう。 その具体的な方法が『静坐』になります。

 

因みに天空庵という名称は、大いなる光に出会われた西田天香師と山本空外師のお二人のお名前から一字ずつ頂戴しました。

清掃奉仕する西田天香師
清掃奉仕する西田天香師

西田天香師は、人生における大きな挫折という深い暗闇の中で光明を見出され、奉仕の行によってその光の体験を深められた方です。京都の山科の地に、今も一燈園としてその遺徳を伝える人々がいらっしゃいます。大正時代から昭和の時代にかけて、キリストの教えを知りたければ教会に行きなさい。キリストの生活を見たければ一燈園に行きなさい、とまで言われました。

山本空外師
山本空外師

一方、山本空外師は、広島で被爆されていますが、南無阿弥陀の念仏三昧によって、大きな光との出会いをなさった方です。般若心経の解説は世の中にたくさんありますが、空外師ほどの深い解釈は驚愕の体験でした。

人は体験していないことは、自分の言葉で語ることはできません。晩年を過ごされた京都府の法蓮寺にお訪ねすると、早朝から念仏三昧をされていらっしゃいました。 智慧のある方とは、何かの知的な理解のことを指すのでなく、意識が体験した地平線の広大さのことを言うのだ、と実感させていただきました。

*瞑想法との出会い

10代の終わりに瞑想に出会い、心が解放され、身体が軽くなる体験を通して、それらを実習することで意識の中に常に嬉しさがあり、物事が良いように流れていくのを体験しました。 一方で、同じような実習を始めながらも、その後縁遠くなっていく方も少なからずいることも知りました。 魅力が湧かない、何がいいんだか良くわからない、という声もありました。

せっかく出会いがあったのに、あの光明の心地よさとの出会いに至らなかったとしたら、もったいなさ過ぎる。 そんな想いが募りました。 個人差、という大きな壁があることは承知しています。 それを乗り越えられる瞑想方法はないものか。 誰でも短時間で、より確実にあの喜びと充実の世界を体験し易い方法はないものか。

これなら人様にご紹介出来る、と自分なりに納得がいく瞑想法に漸く出逢った時には、探求を始めてから40年が経っていました。 それは、自然な形で自律神経や内分泌系のバランスを整えながら、個人ごとに真にテーラーメイドで意識との向き合い方を習得していただく方法でした。

ブラインド
ブラインドも天然木

床材
床材は無垢の杉板を使用し、床下には炭を敷設

天窓
天窓からは優しい陽光が差し込みます

横浜 天空庵が提供できること

天空庵が提供できること

*40年かけて出逢った独自の瞑想法をご指導します。
身体から呼吸、呼吸から意識へと自然に誘導されることで、本来の自分を見つける体験を可能にします。約2時間でお一人ごとにカスタマイズした、実践的な方法を身につけていただけます。

こちらでは呼吸法を大変重要視します。 バイオフィードバックの原理に基づいた呼吸法をご紹介します。 まずは、呼吸法だけでも習得されますと、日常生活で直ぐに変化に気づかれると思います。

 

*グループ実習の場を提供します。
意識は身体との対話でもあり、心との対話の手段でもあります。意識はとても繊細な影響を受けるので、グループ実習によって生み出される大いなる静寂は、相互に良い影響を及ぼしあいます。自宅で一人でやっているより、グループ会場でより深い体験をする人が多いのはその為です。

 

なお、瞑想はお一人様座布団2枚での床座になりますが、膝などの状態で椅子が必要な方用に、椅子も席も何席かご用意しています。

*各種実習会を企画していきます。
ヨガ、ヴェーダ吟唱、呼吸法実習会、アーユルヴェーダ講習会など、瞑想の体験を深めることに役立つ実習/講習会を専門家の方にも来ていただきながら、適宜、開催します。 これまでに心療内科医の先生の講習会(2016年6月)、インドのアーユルヴェーダ医の講習会(2016年10月)や同じくインドからの占星術専門家によるコンサルテーション(2017年9月&2019年9月)などが開催されてきました。

予約制ですので、お問い合わせフォームもしくは、 へご連絡下さい。