2018.07.09
北部タイの町、チェンライの郊外の洞窟に2018年6月23日から閉じ込められた13名の少年とサッカーコーチの救出劇は、世界中の注目を集めて16日目に突入しました。
この出来事で多くの人が驚いたのは、洞窟の中で行方不明になって9日目に彼らを発見したイギリスのダイバーが撮影した映像だったかと思います。
9日間の間、真っ暗闇の中で、鍾乳洞から垂れる水をすすり、わずかに持参していたお菓子もすぐに底をつき、空腹に悩まされた13人が、ライトに照らされた中に、意外にも元気な様子で、イギリス人救助隊からの質問にも英語でしっかり答えていたのが印象的でした。
ニュースのコメントでも、少し痩せてはいるようだが、いたって意気高揚であったことが人々を驚かせました。
そんな中で注目されているのが、12人の少年達を率いている25歳のサッカーのアシスタントコーチであるミャンマー生まれのエーカポールさんです。
(”Ekapol Chanthawong”で検索するとこの方のフェイスブックのページを見れます)
このコーチには、現在に至る壮絶な生い立ちが明らかになっています。 当時住んでいた村を襲った疫病に次々と感染し、両親、兄弟を全て亡くし、なんと10歳にして、天涯孤独な一人ぼっちになってしまったのだとか。
一人残されたエーカポールさんは、親戚に育てられていましたが、12歳の時にお寺に預けられ、それから10年間、厳格な戒律で知られる上座部仏教の僧侶の生活を送ります。
3年前にお寺での修行僧の生活を離れ、少年サッカーチームのアシスタントコーチになりましたが、今でも時々寺院に行っては、座っているそうです。
ここで『座わる』というのは、上座部仏教の『ヴィパッサナー瞑想』をしている、という意味です。
ヴィパッサナー瞑想については、以前にこちらのリンクで書いたことがありますので、それからどんなことをするのか理解していただけると思います。
9日間に渡ってほとんど食べ物がなかった少年たちにとって、閉所プラス暗闇の恐怖とそれに輪をかけて空腹感の苦痛が襲っていたことは想像に難くありません。
育ち盛りの男の子の空腹感に対処するのに、このコーチは、ヴィパッサナー瞑想を子供達に指導して実践させていた、というニュースがタイの地元の新聞の情報を元に取材されたAP通信社の記事で世界に報道されました。
それを聞くと洞窟に閉じ込められて9日目に初めて救助隊出会った時の、あの子供達の落ちついた様子にガッテンがいくのでした。
そう言えば、この上座部仏教の瞑想で人生を変えた人のインタビューをつい最近NHKのテレビ番組『こころの時代』で目にしました。
インタビューされた人は、サッカーコーチの出身地ミャンマーのジャーナリストであり、政治活動家であり、外科医のマ・ティーダさんと言う52歳の方でした。 ミャンマーで起こった1988年の独立運動のさなか、あのノーベル平和賞受賞者でもあり、自宅軟禁を約15年間ほど受けることになったアウンサン・スーチー氏のアシスタントの一人として、軍政に立ち向かっていました。
しかし抵抗むなしく、1993年に逮捕され懲役20年の刑で収監されます。
投獄されたのは政治犯を収容する厳しい牢獄。 3.5メートル四方の窓のない独房に入れられ、粗末な食事、運動は夕方に15分の散歩だけ。 後の時間は独房に閉じ込められ、何より本を含めた活字を読むことが一切許されなかったそうです。
この時彼女は28歳の医学生でした。
そんな完全な自由を奪われた絶望的な状況の中で、彼女は考えること以外に何が出来るだろうか、と自然に自問したそうです。 そして出た結論が、両親と共に上座部仏教のお寺に通った中で教わったヴィパッサナー瞑想をやることだったそうです。
時間はいくらでもあります。 なんと寝る間も惜しむかのように、一日20時間もヴィパッサナー瞑想を実施したのだそうです。 これなら自分の心と身体さえあれば出来ることだからです。
そんな中で彼女に魂の夜明けがやってきます。
『私の自由は刑務所でも奪えない!』と言う心の解放区との空前絶後の出会いに至ったのです。
インタビューの中では、『自由は私たちの中にあり、外から与えられるものではない』とも表現していました。
『自由は私たちの内側にある』 これ自体、気づきの話題の時によく聞く言葉ではあります。
しかし、この一見ありふれた表現を観念として考えることと、その境地を体験として得ることとの間には、天と地の差があります。
マ・ティーダさんは、まさに体験としてその完全な自由な境地に至ったのでした。
結局、彼女は20年の刑期を5年5ヶ月5日間で終えて、両親の元へと帰ることが出来たのでした。
刑務所を出る時に、刑務官らに『私をここに入れてくれてありがとう』と語ったそうです。 それは皮肉で言ったのではなく、この政治犯収容刑務所の厳しい独房という環境こそが、自己に究極の気づきを持たらしてくれた『恩人』だと感じたからでした。
話は飛びますが、学生の頃に出会った小説に、古代ローマ時代の実在の皇帝に題材をとった、辻邦生の『背教者ユリアヌス』という毎日芸術賞を受賞した小説がありました。
その中で主人公のユリアヌスが、恋人に言う台詞にこんな一節がありました。 (記憶なので正確でない部分があるかも知れませんが、主旨はこんなことでした。)
『魂が肉体の囚われの身になっていることに、僕たちはふだん気づかないんだ。 愛する時と死ぬ時を除いてはね。』
この中の『魂は肉体に囚われの身になっている』と言う部分に、当時の当番はいたく共鳴したことを覚えています。 ようやくその時の自分の気分を表現で言い当ててくれた!と言う喜びの共鳴でした。
さらに言えば、ここで言う魂とは、すでに『解放され自由の翼を得た魂』です。 したがって、『囚われの身になっている』と言うことが、実は少しも悲しさを伴っていないのです。
これは先ほどのマ・ティーダさんが、出所の際に刑務官に心から礼を言った、というのと同じ境地かと思います。
1日わずか15分しか外に出してもらえない、狭い刑務所の独房も魂の解放区と出会うことが出来れば、そこはもう本人にとって囚われの場所ではなくなっています。
私たちが生きている限り、客観的な状況として『魂が身体の中に閉じ込められて』います。 普通そんな風に意識することもなく毎日を生きているかも知れませんが、事実はそうです。
洞窟で出られなくなる。 独房に幽閉される。 肉体に魂が閉じ込められている。
様々な自由を奪う状況はあります。 しかし、それだからこそ、究極の解放に私たちの心は向かおうとします。
正しく実習された静坐や瞑想は、私たちを『洞窟』から解放してくれ、そのとっておきの『自由』への具体的な道しるべとなるのです。
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