2018.12.31
冬の永平寺の山門には、気持ちを凛とさせてくれる荘厳さと厳しさがあります。
その永平寺では毎年12月と2月に1週間に渡って、食事と洗面所以外の時間は全て坐禅に打ち込む、という修行があります。
今回はその12月の1週間に渡る坐禅三昧修行が終えた直後に、曹洞宗の大本山である永平寺で参禅に伺いました。
最終日は最も大変らしく、丸一日坐禅をやった後に、通常は夜9時に就寝するところを、そこからさらに夜中の12時まで坐禅。
その後に坐禅三昧の感想を師匠に問う時間がある。 そこでこんなやりとりがありました。
雲水問いて:『もし我見(がけん)起こるときは静坐(じょうざ)して観察せよ、と言われますが、「非思量』(ひしりょう)の坐禅の中において観察するとはどのようなことなのでしょうか』
天空庵流の質問の意味の解釈は=>『そもそも無心になって何も考えない状態であるべき坐禅中に、考えが浮かんだらそれを観察しなさい、と指導されます。 しかるに考えていない時に、どうやって浮かんできた考えを観察することが出来るのでしょうか?』
これは真っ当で、良い質問だなと思って師匠の回答を待ちます。
すると、師答えて:『さて「思量」「非思量」言語にとらわれる道なし。自己の正体を参究(さんきゅう)せよ。』 つまり、考えているとか考えていない、とかの言葉尻に気をとれれていないで、修行を続けなさい、と。
これはこの肝心要とも言える重要な質問の答えになっていないように思います。
あえて修行中の雲水さんにその答えをさらに考えさせようとしているのかも知れません。
この答えの中にこそ、坐禅の先の広い世界の可能性を知る窓口が潜んでいると思えるからです。
今回はまた、「坐禅をするときは、目は閉じません」と教えていただいたことに驚きます。 目を閉じることは、現世との繋がりを遮断することになるからだそうです。
現世にありながら現世を超えた境地の体験を求めるのであろう坐禅が、現世に留まろうとさせる修行方法とは一体何なのだろうか、と考えさせられました。
また、付け加えるように、「目を閉じると、眠くなりますから」とおっしゃられたことには、とても人間らしいなと微笑ましく思いました。
しかし、寝てしまうことは身体の必要性として、寝ないようにするのも不自然に思えてきます。
あの有名な警策による、『バシーン』という警告も、坐禅中は体は動かさないように、という警告のようです。
しかしこちらも、深い瞑想の状態に入ると身体は動くことがあるので、それをしないようにする、というのは深い瞑想に入ろうとしないように誘導している印象です。
かように坐禅と瞑想は180度言っても良いほどの違いを感じます。
かたや瞑想が、意識が静かな領域から考えをなくしていこうとするのに対し、坐禅はあくまでも意識を保ち続ける方向に仕向けようとしている印象です。
瞑想は考えから離れることを意識の拡大の手段に使います。
どのアプローチが自分に向いているかは、私たち一人一人の選択になります。