2023.05.29
最近の瞑想に関する質疑応答ですが、ご参考になれば幸いです。
質問1)
>瞑想中は、いろいろな想念、考え、心配事などが浮かんできても、マントラに戻り、瞑想中に
>起こることはすべて必要な、良いことと聞いたように思います。
回答1)
そうですね、私たちの側から瞑想に臨む時に何かすることがあるとすれば『無邪気にマントラを想う』だけ、ということになります。
その『マントラを想う』というのも実は、起きながらにして『考えることも含めて、何もしない』ための手段に過ぎません。
起きているのに自分から何もしない、働きかけない状態を作るというのは、一見すると本能(起きてる時は行動!)とは矛盾している行動なので、ほっておいて私たちが自発的にやることは普通はないと思います。
私たちは縁あって、瞑想という起きているのにわざわざ何も考えない、行動しない状態を体験している訳ですが、そこで起こっているのは、身体という全知全能の大自然に主人になってもらう、ということになります。
身体は元々主人なのですが、私達はえてしてその邪魔をしてしまいがちです。
悩んだり、心配したりすることもその『邪魔』の一例です。
『この状況に置かれたら誰だって悩むでしょう』ということは実生活で起こるわけですが、たとえ1秒でも1分でもそこから完全に離れて、あの全知全能に全て委ねるのが『瞑想』ということだと思います。
瞑想中に起こるかとは全て必要な良いこと、という意味は、私たちが考えたり、悩んだりすることから離れ、全知全能の側に全てを委ねた時に、自然に生ずる状態のことを言っていると思います。
質問2)
>また、日々規則的に瞑想して、活動していれば、同じように様々な、良い事と思われることや、
>大変な困難な出来事が起きても、やはり瞑想中と同じで、
>瞑想に戻り、必要で良い事が起きていると(一見大変なことに見えても)受け入れることが、良いのでしょうか。
回答2)
起きながらにして何も考えない、何も悩まない状態をたとえ短時間でも体験するのが瞑想と申し上げましたが、その先の世界も当然あります。
それは一見大変なことに見える状態の中でも、蓮の葉に落ちた水滴のように、そのことに煩わされなくなる状態です。
それは『自由な境地』と表現されることもあります。
自由とはあまりにありふれた表現に聞こえるかも知れませんが、瞑想中のあの無心の状態の中で私たちは体験しています。
ヨーガという言葉は、『繋がる』という意味だそうですが、何と繋がるかが問われているわけです。
一つの答えはあの『自由』と繋がることで得られる『自由な境地』ということだろうと思います。
現実の世界で私たちに起こることは、時にとても大きなインパクトとして言葉でのどんな説得や慰めも吹き飛ばして
しまうように思えるかもしれません。
ここでも私たちの側から出来る最良のことは、自分をそこに挟まないことです。
その『自分を挟まない』手段は、あの無念無想の時間を一瞬でも二瞬でも体験し、全知全能に委ねることではないでしょうか。
じたばたしてもしなくても、私たちには必要なことしか起こらない訳ですから、心配しても何も変わりません。
であれば、何も考えず何も悩まない、あの瞑想時に体験する僅かかも知れない『何物にも囚われない自由な境地』に全てを委ねてみてはいかがでしょうか。