2016.06.24
先日、以前に静坐を指導させてもらった日本在住の米人男性から、来月の7月にアンマと言うインドの女性の聖人が日本に来るらしいけど、知ってますか?とメールをもらいました。
その件なら聞いたことがありますよ、と返事を打ったところ、どう思う?というさらなる追い打ちでメールが届きました。
コメントを求められていたようでしたが、特に何か言えるほどの知識がなかったので、その聖人に関して数年前にインドで見聞きした体験だけを伝えたものでした。
ちょうど2年ほど前になりますが、南インドはケララ州にあるアーユルヴェーダのクリニックに1ヶ月ほど滞在していました。 その施設は、インドの別の聖人の方の主治医をされていた、というアシュタ・ヴァイジャ(アーユルヴェーダ医)のDr. Nambiという方のクリニックでした。 なんでも、その聖人の方が晩年に座骨神経痛を患われていたのを、薬草とパンチャカルマという施術で治療なさった、というお話をそこで伺いました。 余談ですが、そのご高齢のドクターナンビも昨年お亡くなりになってしまわれました。
そんな滞在中、現地の新聞に載っていた、奇妙な広告に目が止まりました。
そこには、アンマ(ケララ州に本部)はいかなる誹謗中傷に屈するものではありません、というような趣旨のことが、意見広告のような囲み記事の形で登場していたのです。 それが何とも脈絡もない形で登場していたので、これは何かあったな、と誰もが感じてしまう内容でした。
地元のインドの人にその記事を見せて、これは何かあったのですか?と問うたところ、こんな返事でした。
『それは最近アンマに関する本が出版されて、その著者が地元のテレビに登場して、自分の体験を語ったんだ。 かつてアンマの側近中の側近として長年仕えたオーストラリア人女性の話に、とても信ぴょう性が感じられたので、テレビを観ていたケララの人たちは、皆驚いたんだ。 それでこんな広告を地元の新聞に載せたんだと思うよ。』
その2013年10月に出版された本のタイトルは、“Holy Hell”というものです。 日本語版は出ていないので、現時点では、オリジナルの英語版のみのようです。 本の購入サイトでは、既に250近い読者からの書評が寄せられています。
その多くの書評を読み進んでいくと、実際の本を読むよりも中身のニュアンスがよくわかってくる気がしました。 内容が内容だけに、組織の内部に精通した人も含めて、それほど皆さん真剣に書評を書いています。
このガーヤトリと言うインド名をグルから与えられたオーストラリア出身の女性(Gail Tredwellさん)は、今から40年ほど前の19歳の頃に、当時まだほとんど無名だったアンマと出会い、欧米人で最初の弟子になった人だとか。 以来、20年に渡ってその聖人の方の身の回りの世話も含めて、側近中の側近として24時間献身的に仕えていた人であり、今から16年ほど前に、肉体的にも精神的にもボロボロになり、決死の脱出劇にて、聖人の元を去った、ということでした。 それから自身のリハビリが続き、14年後に今回の体験談を出版した、とのこと。
そこには、その場に居たものしか語り得ない、俄かには信じられないエピソードが続々と登場します。 読み始めたら止まらない、という類の本です。ある時は、食事に塩が入り過ぎていると、ココナッツの枝で作った棒で鞭打たれた、とも。 またある時は用意したミルクがいつもと違う、と髪を掴まれて台所で押し倒され、蹴られた云々。 寝る部屋の準備や食事が用意されていないと、側近にビンタをし、髪を引っ張ることも日常茶飯事だとか。
その他、1994年に出版された正式な自伝である”Ammachi”の中に、アンマが聖母なる存在である証の一つとして、女性の月のサイクルがない、ということが書かれているそうです。 そのことも、身の回りの世話までやっていた著者は、そうでない事実を知っている、というわけです。
また、組織を離れていった多くの側近達には、徹底的な仕打ちをするその数々の具体的なやり方や、スピーチで語るエピソードの多くが全くの作り話であったり、etc. もうこれ以上の嘘には耐えられないと、本の最後に登場する組織からの脱出劇は、スパイ小説でも読んでいるかと錯覚すら覚える緊迫感です。 それらの内容を信じるか否かは読者次第、ということでしょう。
因みにこの本の著者のインタビュー番組は、こちらから観ていただけます。ケララ州の地元の言葉マーラヤム語で応答しています。
聖人と聞いて私達が、期待するのは、肉体を持っていても、世俗を超越し、喜怒哀楽の向う岸の意識を生きている人なのでしょうか。
もし、そうだとすると、あまりに世俗的な様相を知ってしまうと、そこに戸惑いや驚きを感じてしまうのは、致し方ないことでしょう。
しかし、一方で絶対的な静寂の中で、永遠の命を生きていらっしゃる方の存在も知っています。 そういう圧倒的な存在の前では、私たちは自然に聖人、という言葉が出てきます。
至福の世界へと目覚めようとする私たちは、闇を照らす光を示してくださる存在を自然に求めるものでしょう。
どういう導きとの出会いに恵まれるか。 それは、私たち一人ひとりの生き方が決めているのかも知れません。