2016.08.22
瞑想中に、色々なビジョンを観ることについて質問をいただきました。
脳卒中では、どの頭のどの部位で梗塞や出血が起こったかによって、色々な後遺症が出てきます。 頭の一番後ろの部分である後頭葉を損傷した人の中には、全盲状態になってしまう人がいます。 そう、眼球そのものには何も異常がないのにも関わらず、全く目が見えなくなってしまうわけです。
このことは視神系から入った光の情報を私たちに「見える化」しているのは、脳の後頭部の視覚野である、ということ。 平たく言えば見ていたのは、目でなく脳だった、ということです。
そのような人に被験者になってもらい、笑った人と怒った人の顔写真を見せて、それにどう反応するか、という実験がありました。 そう、視覚的にはそういう写真を見せられても、見えないわけですから、笑った顔であろうと怒った顔であろうと反応に差があるはずない、と予想できます。
ところが、実験してみると、笑った人の写真を見せられた時にはいい気分になり、怒った人の顔写真を見されれると嫌な気分になった、というのです。 これは相手が自分にとって味方か、敵か、という判断は、通常の視覚の処理とは全く別の脳の部署で行われている、ということを示す興味深い実験でした。
この実験は、幾つかの示唆を与えてくれています。
一つ目は、先ほどの「見える」というのは、実が脳が決め手だ、ということです。 目を閉じて寝ている時の夢では、かなり明瞭なビジョンを観ることがありますが、これは脳が勝手に「見ている」ということですね。 ですから、瞑想中に何かが「見える」というのも、脳の活動としてあり得ることです。
もう一つは、敵か味方か、近づいて良いものか離れた方がいいものか、と言った生存の為の本能的なところで、「見る」ことによる情報が使われている、ということです。
瞑想の過程によって、考えることからゆっくりと、そしてある境目からは急激に離れていきます。 考えから離れた時、そこには命を維持する為の本能だけが残ります。 その時、生き続けようとする本能は、体験の整理を進めます。 例えば今日会った人が、自分を好意的に受けとめているのか、それともその逆なのか。
その整理の過程で、「見たもの」をあたかも自分に配られたトランプのカードを調べるように、「見て」いくことがあります。 それがどう起こるかは、自分でコントロール出来ることではありませんし、コントロールしようとしないことも重要です。 なぜなら、整理は”自分”がすることでなく、大自然の側がすることだからです。
ビジョンが出てくることは、命の本能が必要な時にやっていることであり、私たちが出来ることはそれをうたた寝中の車窓の景色のように気にしないでいることになります。 私たちが自分に対してしてあげる最良のことは、自然が整えてくれる過程を誘導し、それを邪魔しないことです。
ただ静かに坐り、無心の境地を通して、大自然が最良の整理整頓をやってくれていることを信じてあげてください。